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    雨のポケット

    • 2018.06.13 Wednesday
    • 14:03

    JUGEMテーマ:つぶやき。

     

    「かがく塾」に提出した最初の原稿は、Yahooブログに書きなぐってあった過去記事を、作品としての形に整えたものでした。 それをさらに、岳先生や出席者の皆様からいただいた批評をもとに書き直しましたので、ここに載せてみます。
    文章というものに興味がおありの方は、Yahooブログ「明日につづく文学」の「エッセイ書庫」の最初のほうに、元の記事が載っていますので比較してみてください。どこがどう良くなったのか、お分かりになると思います。
                     
                  「雨のポケット」
     
    新緑に陽が透けて、木立の下がなんだか黄緑色に明るい。その向こうには、青さの増した空のあちこちに、綿菓子のような白い雲が浮かんでいる。と見る間に、雲は端のほうから風に解(ほど)けて、つぎつぎと形を変えていく。また雨が来るのかもしれない。
     
    五月といえば、春霞が引いて、青く晴れ上がった空をイメージしてしまうが、実際は、意外にも雨が多いものだ。大事に育ててきた庭の芍薬がせっかく美しく咲いているところへ、ちょっと油断していると容赦なく雨が降りかかる。細かい雨なら、その中で咲いている姿も趣があっていいものだけれど、残念なことに芍薬という花は、いったん濡れてしまうと駄目になる。よほど固い蕾のうちでない限り、少しでも開きかけたものが雨に当たると、あくる日にはもう萎れて生気を失ってしまう。
     
    こんなに雨に弱いのなら、なぜ五月を選んで咲くのだろうと不思議に思う。おかげで毎年、この花を守るために透明ビニール傘をさし掛けたり、外したり、あらかじめ雨に備えて大きな花瓶に切り溜めたりと、私は忙しい。それでも気紛れにやって来る雨からは、とうてい守りきれるものではなく、結局最後は、茶色の染みを作って萎れてしまった花たちを、「また来年ね」と切り取って始末するしかなくなるのだ。
     
    こうして毎年、私の可愛い芍薬を台無しにしてくれる雨だけれど、それでも私は、実は雨が好きだ。五月の雨も、梅雨の雨も、夏の夕立も、暴風雨も、秋雨も、時雨も、春雨も、それぞれに好きだ。

     朝、布団の中で雨の音を聞くと、布団から出たくないと思うことがよくある。その日にどんな予定があろうと、もうどうでもよくなってしまうのだ。それは、雨の中を出かけるのが億劫だとか、濡れるのが厭だとかいう思いからではない。雨が好きで、雨に降り籠められ、包まれて、そのままじっと雨を感じていたいという強い願望に支配されてしまうからなのだ。勤めていた頃は特に、この願望と闘って身を起こすのがたいへんだった。
     
    どうして私は、そんなに雨が好きなのだろう? 自分の内を探ってみると、脳裏にひとつの原風景のようなものが浮かんでくる。私はその時何歳だったのか、はっきりしないけれども、三つ半違いの妹の影がないところをみると、三歳になるかならないかの頃ではなかったかと思う。五月だというのに、私は母にせがんだのだ。「きょうもおんぶして、栗拾いに行く」と。
     
    幼い私は、前夜、夢を見たのかもしれなかった。
    母に背負われていて、家の前の道をしばらく行くと山栗の木があった。可愛い栗の実がころころと落ちていて、母がひとつ拾って背中の私に持たせてくれた。こげ茶色でふっくらとした三角の実。とても嬉しかった。
    私は次々と見つけて拾ってもらった。落ちている毬(いが)の中に入っているのもあって、母は両足で上手に毬を開き、中から実を取り出した。集めた実は母の白い割烹着のポケットに入れて、「家へ帰ったら、焼いて食べようね」と言った。私は背負われたまま、その様子を見ていた。楽しくて、楽しくて……。
     
    それがきのうのことだと、なぜか私は思ってしまったのだった。家の大人たちはみんな、栗など落ちていないし雨も降っているからと、私を宥めた。私は納まらず、そんなことはない、きのう確かに栗拾いに行ったのだからと、泣いて、泣いて……
    母はしかたなく私を背負ってねんねこ半纏をかけ、から傘をさして外へ出た。母は子守唄のようなものを歌いながら歩いていたと思う。雨が細かくから傘に当たる音がして、傘の外はすべて雨の中。私と母は、傘の下でふたりきりだった。
    山にも道にも道端の木々にも若葉が萌え、あたりは黄緑色に濡れていた。しゃくっていた私はだんだん気が鎮まり、そこへ着く前に、なんだか違うという気がしてきた。
     
    果たして、栗はなかった。それでも母は歌いながら、「栗があるかなあ?」「栗があるかなあ?」と言葉を挟んで、探し歩いてくれた。私は、なんでだろう? と思いながらも、母の背で十分満足していた。母の背中は温かく、柔らかく、雨の音に包まれて、心地よく揺れて……あとは記憶がない。
     
    布団の中で、目覚める前に雨の音が聞こえる朝は、北朝鮮とアメリカがどうこうしたとて、そんなことは関係なく、家族のこともお構いなし。書きかけの小説さえもどうでもよくなり、責任とか、努力とか、目標や希望なんかもほったらかして、ただ雨が降っているだけという時間のポケットに、すっぽり嵌ってしまいたくなる。何をするでも考えるでもなく、ただ、ただ、じっと、雨の音を聴いていたいと思うのだ。
     
    きっと、これが私にとっての雨。どんな雨の中にも、いつの雨にも、その奥にはこの雨が降っているような気がする。

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